投資の世界では、個別企業の業績や経済指標以外にも、国際政治や特定の地域の紛争・軍事行動などの出来事が株価に大きな影響を与えることがあります。これが「地政学リスク」と呼ばれる現象です。投資初心者にとって、このリスクを理解し適切に備えることは、資産形成において重要な要素となります。
地政学リスクについて
「地政学リスク」とは、国際政治や軍事的な緊張、地域紛争などの要因によって、経済や金融市場に悪影響が生じるリスクのことを指し、2000年代以降、多用されるようになってきました。
「地政学リスク」は、具体的には、戦争や内戦、テロ活動、国際制裁、政治的な政策変更、外交関係の悪化などが含まれます。「カントリーリスク」が国単位のリスクであるのに対して、「地政学リスク」は、より広い特定の地域のリスク、さらには一般的な国際関係のリスクまで含めた用語として捉えられています。
ちなみに「地政学」は、国や地域の地理的な位置や資源、地形などの地理的要因が、政治・経済や軍事行動、国際関係にどのような影響を与えるかを研究する学問分野で、たとえば、陸続きの国々の関係、海洋国家のあり方、資源国の特質や課題などについて論じたものです。
地政学リスクの概念を理解する上で重要なのは、このリスクが経済的な要因とは独立して発生することです。企業業績が好調で経済指標も良好な状況を示していても、政治的・軍事的な出来事によって市場全体が大きく動揺することがあるのです。
地政学リスクには、特定の地域・国に限定される局地的なもの、複数の国や地域にまたがる広域的なもの、さらには大国間の対立や国際的な制裁措置など、様々な規模のものがあり、その態様によって、株式市場への影響の程度や持続期間が異なってきます。局地的なリスクの場合、影響は限定的で短期間に収束することが多い一方、より広範な地域あるいは世界的なリスクの場合には、長期間にわたって市場全体に深刻な影響を与える可能性があります。
地政学的な出来事が株価に影響するメカニズム
地政学的な出来事が株価に影響を与える仕組みは、主に3つの要因(投資家心理の変化、実体経済への影響、金融政策への影響)によって説明することができます。
まず、投資家心理の変化による直接的な影響があります。政治的・軍事的な緊張が高まると、投資家は将来に対する不安を強め、リスク回避のため保有株式などのリスク資産を売却する動きが広がり、株価の下落圧力となります。
次に、実体経済への影響を通じた間接的な影響があります。地政学的な出来事は、サプライチェーンの混乱、貿易の阻害やエネルギー価格の変動などを引き起こし、企業の業績に影響を与え、株価にも波及することになります。
そして、金融政策への影響も重要な要因となります。地政学的な出来事は、各国の中央銀行の政策判断に影響を与えることがあります。経済の安定性を保つために金融政策の調整が行われた場合、株式市場全体の動向を左右することになります。
これらの要因は相互に関連し合いながら、複合的に株価に影響を与えます。特に、インターネットや高速取引システムの発達した現在では、特定地域での地政学的な出来事が、世界中の市場に瞬時に影響を及ぼす可能性があります。
過去の地政学的危機と株価の変動パターン
地政学リスクが株式市場に与える影響を理解するには、過去の実例を分析することが効果的です。歴史を振り返ると、重大な地政学リスクが発現するたびに、株式市場は特徴的な反応パターンを示してきました。これらのパターンを知ることは、将来同様の危機が発生した際の対応策を考えるうえで参考となることでしょう。
ここでは、1990~1991年の湾岸戦争、2001年の9.11米国同時多発テロ、2022年から現在も続くロシアによるウクライナ侵攻について、見ていくことにします。
湾岸戦争(1990~1991年):石油ショックと株価急落

1990年から1991年に起きた湾岸戦争は、地政学リスクの典型的な事例として位置づけられます。
1990年8月、イラクによるクウェート侵攻から始まったこの危機は、世界の石油供給に対する深刻な懸念を引き起こしましたが、戦争自体は、1991年1月に米国を中心とする多国籍軍によるイラク攻撃が行われ、同年2月末のクウェート解放により終結しました。
中東地域は世界の石油供給の中心地であるため、この地域での軍事的緊張は即座にエネルギー価格の急騰を招きました。石油価格の上昇は、製造業や運輸業をはじめとする多くの産業にコスト増加圧力をもたらし、企業業績への悪影響が懸念されました。
この結果、米国S&P500指数は1990年8月から10月にかけて355.52ポイントから295.46ポイントへ約17%下落するなど、世界各国の株式市場で株価が大幅に下落し、深刻な影響が見られました。その後、市場が下落前の水準まで回復するまでには約半年の期間を要し、地政学的危機が市場に与える影響の大きさと持続性を示す代表的な事例となりました。
特に注目すべきは、この時期の市場の反応が業界によって大きく異なったことです。石油関連企業の株価は上昇した一方で、航空会社や自動車メーカーなど燃料コストの影響を受けやすい企業の株価は大幅に下落しました。このパターンは、地政学的危機が業界ごとに異なった影響を与える典型例として、現在でも参考にされています。
興味深いのは、米国を中心とする多国籍軍によるイラクへの攻撃が開始された1991年1月以降、株式市場が比較的速やかに回復に転じたことです。これは、軍事作戦の成功により石油供給への懸念が和らいだためと分析されています。この経験から、地政学的危機による株価下落は、実際の影響よりも将来への不安によるところが大きいことが明らかになりました。
9.11米国同時多発テロ(2001年):史上最大の市場閉鎖

2001年9月11日の米国同時多発テロは、地政学リスクが金融市場に与える影響の深刻さを改めて世界に知らしめる出来事となりました。この事件は、新たな形の地政学リスクとして、テロリズムの脅威を浮き彫りにすることになりました。
テロ攻撃の直後、ニューヨーク証券取引所は史上初めて複数日にわたる取引停止を余儀なくされました。この措置は、物理的な被害による取引システムの機能停止だけでなく、市場参加者の安全確保と、パニック的な売り注文による市場の混乱を防ぐという意味合いもありました。
市場再開後、ダウジョーンズ工業平均株価は680ポイントを上回る過去最大の下げ幅(約7%)を記録し8,920ドル程となり、また、S&P500指数は9月10日の1,092.54ポイントから9月21日には965.80ポイントと11.6%下落するなど、市場全体が大きな衝撃を受けました。日本でも日経平均株価が9月12日には前日比682円(約7%)安の9,610円と1万円を割り込み、地政学的危機の影響が世界規模で波及することが改めて確認されました。
ただし、湾岸戦争時と比較して市場の回復は比較的早く、アメリカ・日本ともに約1か月程度で下落前の水準まで戻っています。株価動向は、業界によって明確に明暗が分かれ、航空会社や保険会社、観光関連企業などは事業への直接的な影響が懸念され、株価が大幅に下落しました。一方で、防衛関連企業やセキュリティ関連企業の株価は上昇するという、危機時特有の現象も見られました。
この事件から学べる重要な教訓は、地政学リスクが全世界的な金融インフラそのものに多大な影響を与える可能性があるということです。現代の高度に発達した金融システムは、物理的な攻撃や災害に対してより脆弱な側面を持っており、投資家はこうしたシステミック・リスクも考慮に入れる必要があることが明らかになりました。
ウクライナ侵攻(2022年):今なお続く地政学リスク
2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、地政学リスクの新たな特徴を示す重要な事例となりました。この危機が過去の事例と最も異なる点は、市場の反応が地理的な距離や経済的な結びつきによって大きく分かれたことです。
ヨーロッパの株式市場は、地理的な近さとエネルギー依存度の高さから大幅な下落を記録しましたが、アメリカの株式市場は、相対的に限定的な反応に留まりました。
さらに注目すべきは、株価の動きが戦争の進展に応じて変動し続けたことです。過去の湾岸戦争や9.11米国同時多発テロのような「初期の急落後に回復」という単純なパターンではなく、戦況の変化、制裁措置の拡大、和平交渉の進展などのニュースに応じて、市場が継続的に反応し続けてきています。ウクライナの首都キーウへの攻撃が激化した際には株価が下落し、停戦交渉の報道があれば株価が上昇するなど、戦争の展開そのものが市場のボラティリティを高める要因となりました。
この危機では、食料供給とエネルギーへの影響も深刻でした。ロシアとウクライナは世界の小麦や天然ガスの主要供給国であるため、世界的にこれらの商品価格が急騰し、関連する業界企業の株価に長期間にわたって影響を与え続けてきています。また、ロシアに対する国際的な経済制裁の段階的な拡大により、グローバルな金融システムからロシアが排除される過程で、新たな市場の混乱も発生しています。
地政学リスクに備える3つの投資戦略
地政学リスクに完全に備えることは不可能ですが、適切な投資戦略を採用することで、その影響を軽減することは可能です。過去の危機から学んだ教訓を活かし、初心者でも実践できる現実的なアプローチを3つの観点から解説します。
分散投資による地域リスクの軽減方法

地政学リスクへの対策として最も基本的で効果的なことは、投資先を地理的に分散することです。
地政学的危機は特定の地域に集中的な影響を与える傾向があります。そのため、投資先を複数の地域に分散することで、1つの地域で問題が発生しても、他の地域への投資がポートフォリオ全体を支える効果が期待できます。
具体的な分散方法として、まず国内投資と海外投資のバランスを考える必要があります。
日本国内のみに投資していると、万一、周辺国に地政学的な問題が発生した際の対処が難しくなります。為替リスク、カントリーリスクなども考慮しつつ、金融資産ポートフォリオの一部として海外投資を組み込むことは有効な選択肢となることでしょう。
海外投資を行う場合、地理的分散と合わせて先進国と新興国のバランスも重要な考慮点となります。先進国は地政学リスクに対する耐性が強い傾向があります。他方、新興国は高い経済成長が期待できる反面、政治的不安定性や市場の未成熟、地政学リスクの影響を受けやすい点に留意しなければなりません。
セクター分散でリスクを分散する手法
地政学的危機は、業界(セクター)によっても影響の度合いが大きく異なります。
過去の事例を見ると、エネルギー関連、軍需関連、航空関連、金融関連などの業界は、地政学的出来事に対して敏感に反応する傾向があります。
一方で、生活必需品や公益事業などの業界は、比較的安定した動きを示すことが多いとされています。具体的には、食品や医薬品、電力やガスなどの公益事業といった生活に不可欠なサービスを提供する業種は、地政学リスクの影響が限定的と見られています。また、道路、橋梁、通信設備などのインフラ関連の業種も社会に必要とされ続けるため、地政学リスクに対して比較的強い耐性を持ち、長期的な安定性が期待できるものとされています。
地政学的危機に強い投資商品の選び方
株式以外の投資商品を組み合わせることも、地政学リスクへの有効な対策となります。
伝統的に、地政学的危機が発生すると、投資家は安全資産と呼ばれる商品(信用力の高い国の国債、貴金属、など)に資金を移す傾向があります。これらの商品は、株式と異なる値動きをすることが多いため、ポートフォリオ全体のリスクを軽減する効果が期待できます。
債券、特に信用力の高い国が発行する国債は、地政学的危機時に資金の避難先として選ばれることが多い投資商品です。また、金やプラチナなどの貴金属は、通貨や政府に依存しない価値を持つため、地政学的危機に対するヘッジ手段として古くから利用されています。現在では、貴金属に投資するETFもあり、個人投資家でも比較的簡単に投資できるようになっています。
まとめ:地政学リスクに備える投資戦略の実践方法
地政学リスクは、投資を行う上で避けて通ることのできない重要な要素です。しかし、適切な知識と戦略を持つことで、そのリスクを軽減し、長期的な資産形成を着実に進めることができます。ここでは、本記事で解説した内容を踏まえて、初心者が今日から実践できる具体的なステップを整理します。
ステップ1:地政学リスクに対する正しい認識を持つ。
地政学的な出来事による株価変動は一時的なものが多く、長期的な視点で投資を続けることが成功の鍵となります。過去の湾岸戦争や9.11テロの事例でも見たように、初期の急激な下落の後には回復局面が訪れることが一般的です。地政学的危機の発生でご自身の保有株式を売却した場合であっても、「株価の下がったところは買いなのか?」冷静に判断し、対応することが重要です。
ステップ2:現在の投資ポートフォリオの見直しを行う。
投資先が特定の地域や業界に偏っていないかを確認し、必要に応じて分散を図ることが大切です。国内投資オンリーだという方は、海外への投資も検討してみましょう。個人投資家でも世界中に投資するグローバル型の投資信託やETFを購入することで手軽に地域分散を図ることができます。
ステップ3:ポートフォリオのセクター分散、投資先業界を確認する。
ご自身の保有する株式がエネルギー関連や金融関連など、地政学リスクの影響を受けやすい業界に偏っていると思われる場合には、食品や医薬品、公益事業など比較的安定した業界への投資も管理可能な範囲内で加えてみることをお勧めします。
ステップ4:安全資産への投資も検討する。
国債や金などの伝統的な安全資産は、地政学的危機時に株式の下落を相殺する効果が期待できます。ただし、これらの商品も完全にリスクフリーではありませんので、ポートフォリオ全体のバランスを考慮しながらご自身で納得できる配分を決めることが大切です。
長期投資の観点から見ると、地政学リスクは短期的な変動要因の一つに過ぎません。
地政学リスクを過度に恐れることなく、適切な対策を講じながら投資を継続することが、資産形成の成功につながることでしょう。
※投資は、お客様自身の判断と責任において行ってください。